徒然なる日記

田舎在住。周りよりちょっとだけ楽しいことをしている大学生の見聞録。

#143 論理的かつ哲学的に言い訳をする話

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※固い話が苦手な人は最後だけ読みましょう。言っていることは変わりません。

 

人は誰しも「忘れる」という能力を身につけている。
これは太古の昔、人類が書記体系を発明したからに他ならない。私たちホモ・サピエンスはご存知の通り狩猟採集の生活から農耕牧畜の生活に変化を遂げた。これは単に生活の環境を変えたというだけではない。覚えなければならない情報が、膨大かつ画一的かつ専門的になっていったということだ。何年も前に植えた木の成長のこと、何十年も前の土地の貸し借りのこと、さらには小麦の植え方は、専門知識を持つ限られた長老しか知らなかったかもしれない。
これらを口頭だけで後世へ伝えていくのは限界がある。ある程度大きな政治形態が成立してくるこの時代にはもう少し効率的な伝達手段が必要である。
それが「文字」である。彼らは文字媒体にして記録することで情報を整理したのである。言い換えると、多くの情報を自らの脳にとどめておく必要がなくなった。入ってくる情報を文字として残す。そしてまた新たな情報を取り入れる。だからこそ「忘れる」という行為が必要不可欠になったのである。そうしないと脳が情報過多になってしまうからだ。

 

「忘れる」ということは私たちに良い面も悪い面も見せてくれる。
先に悪い面の一例を紹介しよう。「毎日投稿とか言っときながら昨日日記を書くのを忘れていた僕」である。紛れもなくクソである。だがこの事実に腹を立て戻るボタンを押すのはやや早計である。「お前毎日投稿って嘘やんけクソ野郎」と思う気持ちをどうか落ち着けてほしい。
「忘れる」ということには良い面をもたらす。僕はこの「昨日日記書き忘れた」という事実を元に次はこうしなければいけないという対策を立てることができた。これは大きな進歩である。


かのパスカル大先生も言っていた。「人間は考える葦である」と。
人間ひとりひとりは葦のように弱々しい存在だが、考えるという能力は偉大で尊大なものである。この能力をもっと活かしていくべきであると思う。
だからこそ、忘れた後にどのように考えるかが大切なのだ。「忘れた」ことが重要なのではない。次への考えにつなげていくことこそ「葦」の真価が試されるのだ。

 

つまり、最も強く述べたいのは以下のことである。

 

 

日記書き忘れても別にええやん。